泥のように眠る

アイドルのはなし 引用はご自由に

甥は千年生きるだろう

少年漫画の最終回には大体主人公の子どもが出てくる。かつて私の良き友であり理解者であり代弁者であった彼らは、第一線から遠のき、幸せな家庭を持つ。(私のバイブルこと僕のヒーローアカデミアのデクくんもきっとお茶子ちゃんとそのような結末を迎えるのだろう、と昔から理解している)


唐突だが、私はヘテロではない。私のことを以前からフォローしてくれている方々は知っているかもしれない、アセクアロマ混合の人間だ。男性性を持つ人間には性的欲求を抱き、女性性を持つ人間には恋愛的感情を抱く。

つまびらかに言語化したのはこのブログが初めてのことで、公開ボタンを押す間際もひとつ前の文章を消すか消さないかで迷っている事だろう。もっと踏み込んで言うなら、私は多分デミセク(自分が深い情を持った相手に対してだけ性的な欲求を抱くこと)も兼ね備えている。今までいわゆる恋をしたことはない。

これまで順調に友好関係を築いてきた相手でも、恋人関係になることを向こうが望んでいると察知したとたん気持ち悪さを感じる。幼いころから不思議で、自分はどこかおかしいのではと悩んだけれど、私がそういう種類の人間だというだけだった。一時期ツイッターで盛んに言われていた「自己肯定感が低いから「こんな人間(自分)を好きになるなんてガッカリした」という認識からそうなる」わけではなかった。
アセクアロマ混合でデミセクの気質もあるからといって、私は元々の性格からして執着の強い人間だから、一度執念を持った相手にはこの世の全ての情が果て無く混ざり合った思い入れを持ってしまう。現在の(そしてこれから先の)対象がまもなく生後一年を迎える甥っ子なのは程々にしておきたい。

 

付き合った人数は、と聞かれるたびに片手に数えるくらいだよ、と言う。今までで最長何年だった、と聞かれれば一年とかかな、と言い、好きなタイプを聞かれるたびに適当な俳優の名前を挙げる。
ヘテロです、私は女性で、男性が好きです。と思えたら楽なのに。
誰とも恋人関係を築いてこなかったこと、これからも築く予定のないことを言ってしまおうかと思う事がある。実際、深く考えないまま知人に伝えたことがある。知人はその後他人にそれを教えていた。
アウティングに近い行為だと思った。恋人を持ったことのない自分を恥じたし、周囲の人が自分をどう思うか心配になったし、その知人を恨みもした。それ以来恋愛の話は聞き役に努めることを徹底している。

 

なぜ恋人が必要なのか、家庭が必要なのか、人生を一人で過ごしてはいけないのか。私自身ですら、私の人生にそう思い込むのか。

 

そして、私はフェミニストだ。相手の名字は欲しくない。いかに形式的なものと頭では理解していても主人とは呼びたくないし、奥さんとは呼ばれたくない。
フェミニズムを標榜していても何らかの形で区切りをつけ、パートナーと家庭を築いている人は多いだろう。そういう人々を突っぱねたいのではなく、ただ、私はそれに耐えられない。

 

今でも同じ気持ちだ。
同じ気持ちだけど、今年からは甥がいる。

 

美しい日向の子。柔らかくて愛くるしくて、今年の初めに弱弱しく動いていた小さな手は今や叔母の頬に傷跡を付けるくらい頑健になった。カメラの前ではいつも片方の眉をひそめて訝し気な表情をする。あやすと時々声を立てて笑い、抱き上げられると左足をパタパタと動かす。生後しばらくを経て夜泣きは減り、外出時には猫を被ったようにおとなしい。甥は私の人生に希望を与えた。過ぎた新生児の姿を懐かしみ、未来の姿に思いを馳せる。私の遺影は甥にしてほしい。

 

子どもの持つ力を知ってしまった。私より歳を重ねた少年漫画の作者が、そろいもそろって最終回に子どもを描く理由がわかった。甥を見ていると子どもは「永遠」のあらわれではないかと思う。おそらく死とは無縁の生きものだ。甥は千年生きるだろう。

 

元来の気質と相まって、現在のセクシャリティでは婚姻制度を利用することはない。分かり合える誰かがいればいいのにと思わなくはないが、それは結婚とは別の話だ。もしかしたら、他人の人生に責任を持ちたいと考えた時、養子を検討することもあるかもしれない。
セクシャリティと同様に人生への向き合い方も流動的だから、今後の数十年(生きていたら)の選択を今の考えで狭めたくはないと思う。

 

甥の成長を見守って生きたい。友人を大切に生きたい。いつか自分は自死を選ぶだろうと真夜中の散歩で感じた直感が今は遠かった。願わくばこの日々が続けばいい。