泥のように眠る

アイドルのはなし 引用はご自由に

ありがちな言葉とアイドルと人生

ドイツとか、オーストリアとかチェコとかで、一人で歩いたり食べたりしたときに似ていた。
1日1日を踏みしめて生きていくような安心感があった。

DAY6のコンサート 

それはもう本当に楽しかった。言葉に表せないほど、という言葉を自分が使う日が来るとは思わなかった。自分の感情は自分のものなので、どうにかこうにか感情を言語化していきたいと心がけていた。でも、DAY6のコンサートを終えた感情を今の私には言葉に表せない。それほど楽しくて優しくて満ち足りた、幸せなコンサートだった。

私は散々、アイドルに本心はいらないとか嘘を貫き通してほしいとかうそぶいていたけど、あれは嘘だったんだなと、いや嘘というわけではないけどホントのホントは真心がほしかったんだなと気付いた。
世の人間は私の期待に沿うように設計されているわけではないので往々にして私の(勝手な)期待を裏切るものだし、そもそも私自身が、生きた人間の変化に適応できなくて遠くなっていく背中を泣きながら見送ったり、あるいは遠ざかられる前に尻尾を巻いて逃げたりする人間なので、要は私は、ずっと一人ぼっちだったのだ。
知らず知らずのうちに自ら選択した結果で、それを変える手立ても持っていなかったために、今までそんな風に生きてしまい結果としてアイドルに対しても一歩置くような気持ちでいてしまった。
DAY6の人たちは、そういう心持ちでいた私をも引き込む歌い方をした。あ、人を信じてもいいんだなと冗談ではなく思った。一生忘れられないほど感銘を受けたパートがあったわけじゃないし、待ちわびた新曲を聴けたからというわけじゃないのに。
DAY6が作る時間すべてがひたすらに心地よく、私の人生に染み入った気がした。のびやかな歌声が、幸せそうに歌い上げる表情が、腹の底にズドンと響く楽器の音色が、幸せだった。真心と呼ぶべきか?とてもきれいな心をもらった気がした。どんなに綺麗な言葉を並べても、とうてい追いつかないほどの贈り物だった。
歌がうまいひとは大勢いるし、素晴らしい作詞作曲をするひとも大勢いる。もっといい機材を、もっといいステージを用意できるひとたちもたくさんいるけど、今日のDAY6のコンサートは私の中で一等素晴らしいコンサートだった。

また、DAY6はファンの歌唱力をメチャメチャ持ち上げる癖があり、それも体感できてよかった。事あるごとに歌わせたがり、本当に丸々一曲ファンだけで歌ったりした。DAY6たちはその間伴奏に徹していた。なに?

彼らの言葉

最後のMCがひときわ強く胸を打ったことも、このスペシャルなコンサートの記憶をより色づかせたのかもしれない。ウォンピルは穏やかな口調で(このアイドルはいつも優しくて温度の一定な話し方をする)、ファンがしんどい世界でちゃんとやってることを教えてくれた。たまにソロで行うVライブでも、僕たちはいい人たちだから大丈夫ですよとさんざ言ってくれていて、私はそれを何回も聞きなおしていて、だからマイクを通したとはいえ肉声でウォンピルの優しい言葉を聴けて幸せだった。
ヨンケイは、場の空気をよく見て判断を明瞭に下す人は、丁寧に言葉を紡いでいた。「あなたの人生の主人公はあなたなんですよ」と、「スポットライトはいつでもあなたに当たっているし、あなたたちの一日一日があなたたちの舞台なんです」と。正直ヨンケイはあっさりコメントを終わらせるのかな、と思っていたのでここまで真摯なコメントをしてくれるとは思わず、涙ぐんでしまった。僕たち大丈夫ですか、ちゃんとやれてますか、といつかのコンサートでびしょびしょに泣きながらヨンケイは言っていたけれど、今回はひたすら幸せな雰囲気だったので。でも最後にはじゃあみんなでファイティン!って叫びましょうか~!って一本締めのノリで終わったのはいつものヨンケイぽかった。余談だが、次の次の日のコンサートは記念すべき彼らの百回目のコンサートだったらしく、そこではそれはもう、うつくしい言葉を花を吐くように伝えていた。(のをファンカムでみた)
「しんどくなったらいつでも来てくれればいいですよ。僕たちはここにいますから」と当たり前のように言うドウンに救われた人はどれくらいいるだろうか。デビュー4年にして100回ものコンサートを終えたグループのひとりが言うのだから、信頼するには十分すぎた。いつも恥ずかしがってドラム以外ろくに自信を持った表情を見せないのに、こういうところで言い切るのはプライドが見えてよかった。
ジェヒョンは上手にやることも重要だけど、やり切ることが大事でしょう、と言ったり、コンサートの日付を間違えたり言いたいことがわからなくなってソンジンに聞きに行ったりしていて自由だった。中学校高校時代ともだちがマジのマジでいなかった!って言ってたり、デビュー後に今がひもじすぎてとにかくランチ代を稼ぎてえ!って言ってたことが脳裏によみがえった。
〆のソンジンがネ~、よかったです。本当によかった。今までの4人もとてもよかったのだけど、さすが締めにもっともふさわしいコメントをするのだなと思った。「悩み相談をVライブでやったのだけど、僕が以前自信をなくした時に考えたことがあるのでここでもお伝えできればと思います。それは失敗をした時に後悔をしないこと。後悔するのってすごくしんどいじゃないですか。だから、一度受け止めて、“ああ失敗したな。自分がダメだったな”と考えて、それで良しとする。そうしたらいいんです」
本当に、本当にありがちな言葉ではあるのだ。たくさんの作品と人間が溢れてる世の中で、目新しい価値観や考え方を見つけるのはむずかしい。年を重ねれば重ねるほど、世の中にはいろんな考えがあるしそのほとんどに手垢がついていることに気付くだろう。そんな中で重要なのは、自分にとってそれをどんな人が言ったのかということなのだ。いや、これもとてもありがちな言葉ではあるのだけど。

DAY6たちが届けてくれた言葉の数々は間違いなく私の心に響き、おそらく人生の節々で思い出すであろう言葉になってくれた。

キムウォンピルというアイドル

それで、ウォンピルなのだ。不思議で、優しい、歌声のすてきなキムウォンピル。
誰かの言葉も心の支えになったり、人生の標語になったりはするけど、誰かの行動もまた等しく自分の心の礎となる。私の場合キムウォンピルの生き方がそれだった。

コンサート中盤、紙袋に入れられた薔薇をDAY6のメンバーが、会場を練り歩きながらファンに渡す場面があった。
他のメンバーは紙袋から直接ぽんぽんと投げていたけど、ウォンピルはバラ一輪ずつをファンに手渡していた。手持ちが無くなるとスタッフが数輪をウォンピルに渡して、その流れがずっと繰り返されていた。音響スタッフにもウォンピルはその花を手渡した。
手自らファンに渡すなんて優しいと、行為そのものに感動したわけじゃない。「手渡しをしよう」と考えるに至り、実際に行動した優しさと強さに感動した。というのも、ウォンピルはメンバーにこんなに優しい人を人生で見たことがないと言わせしめるくらいに優しい人なのだが、同時に強い人でもあるからだ。
心ない言葉にどうか傷付かないでね、というファンの言葉に「心配しないでください、本当に。僕ですね…そういうの本当傷付きません」と穏やかな顔で、至極なんてことないように言い放つほどには、強かなひとなのだ。
優しいという言葉は言い換えれば他人の期待に応える人であるとも捉えられるのだけど、ウォンピルの場合は少し違う。
ウォンピルは優しい人でありながら、彼の中に確固たる自我を確立させていて、それが揺らぐことなく他人を受け止めている。
そうやって生きるのは本当に、本当にむずかしいことだし、いっそ天性のものではないかと思う。というかたぶん3割くらいは生まれ持ったものだ。ウォンピルがこの世に生を受けたときからウォンピルの類稀な優しさは存在してた。恐らく。
他人からの期待を感じれば、無理をしてでもそれに応えたくなるのが人間だ。相手にとって都合のいいことはなんだろうかと思いを巡らせたり、時折他人からチラつかせられる嫌悪の感情に怯えるのが人間だ。
だけど、たぶんウォンピルは違うのだろうなと思う。ある意味彼の考え方は自分本位の考え方で、それが奇跡的に相手をおもんぱかる思考へと(極度に)傾いているのがキムウォンピルという人間なのだ。

だって、端っこの席ではないファンからしたら、投げてよこしてくれた方がよっぽどいいだろう。現に他のメンバーはそうやって真ん中の方に投げていた。手渡しをしろとはおそらく誰も言っていない。
でも、ウォンピルは違う選択をしたのだ。自分はどうやって薔薇を渡したいだろうかと、そうやって自分自身で考えて行動した人は、紛れもなく優しく、強いひとだ。

正直、ウォンピルに憧れる気持ちがずっとある。今回のことに限らず、自分の信念に従った行動をするのはむずかしい。わたしだったら、わたしが彼の立場だったら果たして同じことができただろうか、思いついただろうかなんて考えてちょっと落ち込む。現実にそんなことはありえないんだけど、でも似たような境遇に立つ日がきっと私にもかつてあったし、これからもあるだろう。その時、わたしはやさしくて強いひとになれているのだろうか。

それでも、すごくすごく落ち込んで眠れなかった夜、Vライブでのウォンピルの「僕たち、ちゃんとやってるじゃないですか」という言葉にどれほど救われたかわからない。赤の他人なのに、お互いをこれっぽっちも知らないのに、たしかに画面の向こうに大事な人がいるように話すのだ、ウォンピルというアイドルは。その上、同じVライブで、今でもおそろしいほどに優しくて芯の確かなひとなのに、「これからもっといい人になれるか自分でも気になる」と言う!

世の中のアイドルはだいたい良い人たちばっかりだ。少なくとも画面に映っている間は、面白おかしくて、たまに寂しそうで、心の温かいひとたちに見える。そういう人たちに救われている。DAY6はバンドグループなので歌って踊るアイドルではないけれど、自分の時間の多くをファンに割いてくれる人々なので、アイドルと呼んでもいいんじゃないかと思う。アイドルラジオにも出てたし…。キムウォンピルというアイドルは、私の心の支えだ。

アイドル、どうか幸せに。私よ、どうか幸せに。

アイドルは私たちファンに救われていないとまでは言わないけど、やっぱりアイドルがファンを救うほどには救えていないのも事実だ。MY DAYが心の支えだとDAY6たちは言うけど、アイドルがそういうことを言うときっていつも 人 という字の成り立ちを思い浮かべてしまう。これに関してはマジでごめん…としか言えない。せめて幸せであってくれ。どうか幸せであってくれ!

DAY6のコンサートは本当に本当に楽しかった。コンサートって幸せな時間を過ごすために行くものだけど、期待以上に幸せだったし、彼らのメチャクチャうまい歌声にひたすら浸かる幸福感と言ったら。楽しかった、幸せだった。アイドルを好きになれてよかった。幸せになってしまった。

ずっと幸せになるのが怖くて、過去の影ばかりを追いながら生きてきたのだけど、最近はそうでもない。DAY6のコンサートが終わってからは、冒頭に書いたように、数年前中欧を一か月ほど練り歩いたとき「私はこの世界で生きてるんだなあ」という実感を得られたときに似ている。DAY6のコンサートが終わったとき、「私は幸せになってもいいんだなあ」と思った。そうした気づきは、爆発音のようなものと共に得られたわけでもなくも、頬のすぐそこを何か鋭いものが過ぎ去ったように得られたわけでもなく、ただただふっと雪が舞い始めたのを知ったときのように静かに得られたものだった。だからこそ、途方もない安心感があった。

DAY6のコンサートを終えた私は以前とは少し違う私になっている。ウォンピルたちが贈ってくれた言葉は、たくさんの人が語る言葉の中でも私の中で一等の輝きを放っている。それはとても幸せなことだ。これからもDAY6のコンサートの記憶を忘れずに生きていけたらいい。